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2/10 [マオとヨナの最終章] 彼女が私を、強くした。

(2014-02-10)

報道機関

Number Web

見出し

[マオとヨナの最終章] 彼女が私を、強くした。

配信日

2014210日 6:15

http://number.bunshun.jp/articles/-/782073

number210.png
 

◆内容◆

2人の“天才少女”が出会ってから、10年が経つ。
どちらも順風満帆だったわけではない。それでも、
視線の先に互いの姿があったから、走り続けてこられた。
彼女たちの紡いできた物語とは――。

**************************

一体、誰が忘れることなどできるだろう?

 フィギュアスケートでは、今でも人々に語り継がれる偉大なライバル関係とその逸話がいくつも残されてきた。
  例えば'88年カルガリー五輪。
  米国のブライアン・ボイタノとカナダのブライアン・オーサーが金メダルを競り合った男子の「ブライアンの戦い」。女子では、東ドイツのカタリナ・ヴィットと米国のデビー・トーマスが繰り広げた「カルメンの戦い」があった。
  あるいはアレクセイ・ヤグディンとエフゲニー・プルシェンコのように、どちらも同じロシア人だったこともある。イリーナ・スルツカヤとミシェル・クワンの、勝ったり負けたりだった友好的なライバル関係もよく知られている。

 浅田真央とキム・ヨナのライバル物語は疑いようもなく、これらの過去の偉大なストーリーに連なるレベルのものだ。2人の抜きん出た才能を持つ選手が、たまたま同じ時期に国際試合の舞台に登場したのは、奇跡のようでもあり、また運命のようなものなのかもしれない。

'04年秋、真央は美しく、ヨナは予想外の勝利を飾った。
 始まりは、'04年秋のことだ。この年、浅田真央もキム・ヨナも、13歳でジュニアグランプリシリーズに初参戦した。ヨナは95日生まれ、真央は925日生まれと、年齢までほとんど同じだった。
  真央の初戦は、カリフォルニアのロングビーチで行なわれた。私が彼女の試合を見たのはそれが初めてのことだった。注目された3アクセルこそ回転不足だったが、真央は美しい演技を滑りきってみせた。一方、ヨナはブダペストの大会が初戦だった。2人ともそれぞれの試合で圧勝。
  実は、ヨナの勝利は予想外のことだった。韓国からの選手がこのような好成績を収めたのはフィギュアスケートでは初めてのことだったからだ。だが、今思えば、これは2人の戦いにおいて、まだまだほんの序の口だった。

ジュニアGPファイナルで見せた2人の対照的な表情。
 2人は揃って'0412月にヘルシンキで開催されるジュニアGPファイナルに進出し、初めて顔を合わせた。
 この時は真央が3アクセルを成功させて優勝。ヨナはミスがあって2位に終わったが、結果以上に2人の違いは驚くほど鮮明だった。
 真央はいつも笑顔で人懐こく、オープンな印象の少女だった。一方、ヨナはあまり感情を表に出さず、シャイで内気な雰囲気。記者会見でも言葉少なだった。真央にとってスケートとは喜びそのものであり、ヨナにとってはまるで仕事であるような印象を受けた。
 翌年3月、カナダでのジュニア世界選手権で、2人は再び顔を合わせる。ここでも真央は優勝し、SP6位のヨナがフリーで挽回して総合2位。このときも、ヨナは真剣な顔を保ったまま笑顔を見せることはなかった。
 この日の記者会見のことは、昨日のことのようによく覚えている。真央はとてもリラックスしてその場にいるのを楽しんでいる一方、ヨナは通訳代わりをしてくれた韓国の連盟関係者に小声で話すだけだった。

転機となった'06年のジュニア最後の大会。
 このときのことを私はドイツの雑誌に、次のように書いた。
「ピンクのジャケットを羽織った日本のアイスプリンセスは、大勢の記者を従えて会見室に入ってきた。彼女は明らかに自分への注目を楽しんでいるようで、質問にも楽しそうに答えた。その一方、ヨナは『このメダル(韓国の選手として、初の国際スケート連盟の大会でのメダル)を手にしたことを誇りに思っていますが、将来さらに良い結果を得るためにもっと努力をしていきたいと思います』と、真央とは対照的に真剣な表情だった」
 この頃には、周辺の人間たちには「いずれ必ずこの2人の時代が来る」ということが分かっていた。
 皆、真央の3アクセルを話題にしていたが、基礎技術はヨナのほうがしっかりしており、この日本の選手にチャレンジできるのは彼女だけであろうということは、十分予想できた。
 そしてついに、2人にとって最後のジュニア大会となった'06年スロベニア世界ジュニアで、ヨナは真央にジュニア国際大会での唯一の黒星を与えることになる。

3アクセルは跳ばないが、ヨナには必要なかった。
 同時に、この頃からヨナは少しずつ、心を開いてきていた。寒いリンク際でコーチの助けを借りながら彼女のインタビューをしたとき、まだ英語を口にしようとはしなかったけれど、質問は全て理解しているようで、時折笑顔を見せるようにもなっていた。

 この大会のことを、私はこう記した。
「ヨナの勝利は多くの人にとって予想外だったようだ。真央以外にも才能のある15歳の少女がいることを人々は忘れがちだったものの、ヨナはこの年かなりの進歩を見せていた。彼女のジャンプは真央よりも質が高く、滑りも大人っぽくなってきている。3アクセルは跳ばないが、彼女には必要なかった。彼女の3フリップ+3トウループのコンビネーションは、不動の岩のように安定しているからだ。
 真央はスロベニアでは決してベストな滑りではなかったが、競技会のSPで女子として初めて3アクセルを成功させた。この2人の戦いは、来年はシニアに舞台を移して続くだろう。どちらも抜きん出た才能があり、フィギュアスケートのレベルをより高いものにし続けている」

◇   ◇   ◇

荒川静香が頂点に立ったトリノ五輪以降、氷上の主役は真央とヨナとなった。
様々な困難に直面した真央の一方で、ヨナは論理的にポイントを積み重ねる。
そしてバンクーバー五輪での金メダル獲得後、ヨナは長期休養を選ぶ。
ライバル不在の中、感情豊かな日本のエースは輝きを取り戻していった――。
※つづきは、雑誌「Number846号、もしくはNumberモバイルでお読みください。
number2101.png

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2013.2.18 [舞姫が復活する日]「失われた〝ミキ″を求めて」

(2013-02-18)

報道機関

Number Web

見出し

[舞姫が復活する日]「失われた〝ミキ″を求めて」

配信日

2013218日 601Number822号掲載)

http://number.bunshun.jp/articles/-/339900

number2013218.png

◆内容◆

わずか14歳で4回転を跳び、18歳で初の五輪を経験。
失意の時期も乗り越え、'11年に2度目の世界女王に輝くも、
選手人生の絶頂期に休養を宣言。約2年の月日が流れたが、
人々は何故、美姫がいればと想像し、復帰を待ち望むのか。
公私に渡って支え続けてきた関係者たちの証言から、
見る者すべてを惹き付ける、彼女の魅力の秘密を探った。

 

両手を開き、指先を嬉しそうに眺める。

「この爪、安藤がきっかけなの」

 城田憲子の10本の爪には「銀ラメ」のマニキュアが施されていた。

 城田は、日本スケート連盟の元強化部長だ。そのときの縁で、女子フィギュアスケーターの安藤美姫とは、今も親交が続いている。

 安藤にお小言を言うのも「お目付役」の仕事だ。数年前のオフ、お洒落好きな安藤が爪を派手に装飾していたことがあった。

「その爪なんとかならないの? って怒ったんです。そうしたら『やってみてから言ってください』って返されて。それで塗ってみたら、物を持ったり、何かを開けるとき、便利なのよ。本当に丈夫で、爪が割れなくなった。それではまっちゃった。ははははは」

 城田が見せた無邪気な笑顔は、はまった理由が「割れなくなった」からだけではないことを物語っていた。

 我々が安藤に惹かれる理由――。その一端は、こんなところにもあるように思えた。

◆安藤の復帰が予定より遅れている理由はただひとつ、コーチの不在。

 安藤は今シーズンもまた、リンクに戻ってこなかった。

 2011年、モスクワで開催された世界選手権で二度目の世界女王になった安藤は、そのまま休養期間に入った。城田がこう慮る。

「世界選手権のあとは、虚脱感に襲われやすい。だから、それはしょうがないと思った」

 当初は、ソチ五輪のプレシーズンにあたる今季から復帰する予定だった。ところが昨年10月、2季連続となるGPシリーズ欠場を発表した。

 理由はひとつ、コーチの不在だ。昨年3月に、休養に入る直前まで約5年間コンビを組んだニコライ・モロゾフにコーチを依頼したのだが断られ、そのモロゾフに代わる新コーチも見つけることができなかったのだ。

 最長で410秒間、約60m×約30mの広い氷上で、自分ひとりに視線が注がれる世界。それがフィギュアスケートだ。重圧の中で唯一、自分の味方になってくれるのがリンクサイドに立つコーチである。その存在なくしてスケーターは戦えない。

◆出来不出来の波も減り、これからというときに……。

 安藤は昨年10月、欠場宣言するとともに、来年こそは復帰し、その後は引退の可能性が高いというところまで語った。つまり、ソチ五輪を含む'13-'14年が、安藤にとって現役最後のシーズンとなることがほぼ決定的になったわけだ。

それにしても、もったいなかったと思わずにはいられない。'10-'11シーズンの安藤は、65勝と過去最高の成績を残していたのだ。

 安藤の滑りは、安定感に欠ける――。

 常にそう言われ続けてきた。その日の気分に左右されやすいからだ。本人も自著『空に向かって』の中で、こう悲嘆している。

〈私はシーズンによって、試合によって、出来不出来の波が激しい選手です〉

 が、23歳にして気持ちの波がようやく穏やかになり、いよいよこれからというときに、表舞台から姿を消してしまったのだ。

◆「美姫ちゃんの演技は血が通っているじゃないですか」

 ただ、こうも思う。安藤の「不安定さ」は、天才性の表れでもあった、と。

 国際スケート連盟認定のテクニカルスペシャリスト(技術審判)で、安藤に技術的なアドバイスをする小山朋昭はこう断言する。

「気持ちが入ったときの美姫ちゃんは、キム・ヨナでも足元にも及ばないと思う。キム・ヨナは作業になってる気がするんです。ここでこうジャンプすれば、何点入るみたいな。でも美姫ちゃんの演技は血が通っているじゃないですか」

 そんな安藤にとって「安定」とは、ある意味では、退屈以外の何物でもなかったのかもしれない。不安定さは、安藤が誰より正直に、誰よりもドラマティックに生きている証でもあったのだ。

 ここ数年の安藤はアーティスティックな面がより強調されるようになったが、そもそもは傑出したアスリートだった。

◆安藤の才を探り当てたのは、浅田姉妹も指導した名伯楽。

 天賦の才。最初にそのスイッチの在りかを探り当てたのは、名古屋を拠点に指導する名伯楽の門奈裕子だった。安藤は8歳のときに門奈のクラブに入り、次々と難易度の高いジャンプをマスターしていった。城田が話す。

「門奈先生の生徒さんは、みんな本当にジャンプが上手。軸作りがうまいんですよ」

 ちなみに浅田舞・真央の姉妹も、門奈が指導するクラブ出身だ。

「白い氷の上に舞い降りた黒豹みたいでしたね」

 そう振り返るのは、インストラクターを務める西田美和だ。安藤は中学2年生に上がると同時に、新横浜プリンスホテルスケートセンター所属の名コーチ、佐藤信夫の指導を仰ぐため、週末だけ実家のある名古屋から横浜まで通った。当時、同リンクでコーチの手伝いをしていたのが西田だった。

「有名な4回転を跳ぶ子って、この子だってすぐにわかりましたよ。ちょっと色黒で、しなやかで、鋭くて」

◆無防備な安藤が、4回転ジャンプで一躍舞台の主役に担ぎ出される。

 安藤の周囲の風景を一変させたのは、その4回転ジャンプだった。中学3年生のとき、女子として初めて公式戦で4回転ジャンプを成功させると、知らない内に舞台に担ぎ上げられ、主役を演じなければならなくなっていた。西田が往時を思い出す。

「食事をしているとファンに囲まれるし、お手洗いまで男の人がついてきちゃったりしたこともある。ちょっと怖かったですね……」

 だが安藤は、そんな状況に戸惑いながらも、まだどこかで楽しんでもいた。当時の記事を読み返すと、インタビュアーが、安藤が恋愛話などのプライベートなことまで平気で話すことに驚かされているシーンにたびたび出くわす。元来、安藤は無防備で、人懐っこい性格だった。だから、人から注目されることは嫌いではなかったはずだ。

 ただし「舞台」は、そうして役作りも化粧もせずに上がる場所ではない。好奇の目を容赦なく向ける観衆の前でそんなことを続けていたら、とてもではないが身が持たない。

初めての五輪、惨敗した結果以上にショックだったこと。

 その無理が露呈したのは'06年、高校3年生で迎えたトリノ五輪のときだった。

 本番3日前の記者会見で、8歳のときに亡くした父親のことについて触れられると「そういうことにはお答えできません」と、壊れたように泣きじゃくった。

安藤にとって父親の記憶は宝石そのものだった。その宝石箱を強引に奪われ、こじ開けられたかのような気分になったのだ。

 試合でも4回転ジャンプに失敗するなど精彩を欠き、初めてのオリンピックは15位と惨敗した。ただ、試合の結果以上にショックだったのは、その後、自分の周りから潮が引くように人が去っていったことだった。

『空に向かって』の中で、安藤はこう綴る。

〈そこで気がついたのは、結局記者の人たちは、話題性で自分を取材しているだけだった、ということです。(中略)私は人を信じることをやめました〉

 当然のことと言えばそうだ。だが、それに気がつくのに、安藤は普通の人の何倍もの時間とエネルギーを費やした。西田が言う。

「素直すぎて失敗しちゃった……。でも、だから、ほうっておけないんですよね」

◇   ◇   ◇

失意のどん底に沈んだ安藤を蘇らせたのは、モロゾフだった。
安藤は、“劇薬”のようなロシア人コーチの下、その副作用に苦しみながらも、スケーターとして成長を続けていく。現在はひとりで練習を重ねる安藤だが、
ソチで大輪の花を咲かすことはできるのか?

つづきは、雑誌「Number822号、もしくはNumberモバイルでお読みください。



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