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3/3 佐々木美行の指導者としての喜び フィギュアスケート育成の現場から(8)

(2015-03-03)

報道機関

Sportstiva

見出し

佐々木美行の指導者としての喜び フィギュアスケート育成の現場から(8)

配信日

2015年 3月 3日 12:45

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201502260004-spnavi

◆内容◆松原 孝臣

教師とフィギュアスケート指導の両立

創立から20年を超える年月を重ねてきた倉敷フィギュアスケーティングクラブ(FSC)。高橋大輔をはじめとして全国大会などで活躍する選手たちも輩出してきた。
 同クラブの監督、佐々木美行は立ち上げから今日まで、常に中心にあった。クラブの歴史であると言っていいかもしれない。
 ものごとは、得てして、始めることよりも、続けることが大変であり、エネルギーを要すると言われる。それを考えれば、そもそもは決してフィギュアスケートが盛んであるとは、根付いていたとは言い切れない地での歩みにこそ、大きな価値がある。
 しかも佐々木は、小学校の教師でもある。それと同時に、スケートの指導を続けてきた。

 クラブの運営は、保護者も参加しての、ある意味、集団体制で行なわれている。
 とはいえ、中心にある佐々木の立ち位置を考えれば、両立がやさしいこととは到底、思えない。
 しかし、佐々木は言う。
「小学校、スケート、そのどちらかだけだったら、たぶん行き詰まっていたと思います。学校は、さまざまな思いを持った子たちが集まってくる場所で、クラブはスケートをしたいという明確な目標を持った子たちが集まっている。そうした違いはありますが、それぞれに面白い場所です。
 学校で何かうまくいかなくても、スケートでうまくいくとそれで復活できるし、スケートで疲れても学校で疲れがとれることもある。両方だから元気にやってくることができたのだと思います」
 2つの場があることの効用を語ると、こう付け加えた。
「大変だと思わない最大の理由は、毎日教え続けていて、飽きた、と感じることがまったくないからかもしれません」

「小さな実感の積み重ねで今がある」

 毎日繰り返される時間は、ときに、指導者にも緩みをもたらしたり、日常の単なる1つの仕事と思わせかねない危険性をはらんでいる。
 佐々木はそれを否定する。
「だって、毎日、楽しいですから。自分なりに目標を毎日立てて、例えばアクセルで苦しんでいる子がいるとすれば、今日こそ立たせてあげようと思い、それがかなえば、よかったなと思える。毎日毎日、そういう思いを抱けるのだから、楽しいですよね。そんな小さな、小さな実感の積み重ねで今があるんですね」
 さらに続けた。
「何よりも、目の前にいる子が進化するのがすごく楽しいんですね。例えば今朝も、午前4時半に家を出て、午前6時まで岡山のリンクで滑ってきました。その中に、テストの課題がまだできていない子がいました。その子が新しい級に合格できるように、課題をクリアできれば、と思っていましたが、うまくこつをつかんでくれた。よかったなと思って帰ってきましたし、もうそれだけで、早朝から出かける大変さもなくなりますよね」

パーソナルベストを目指すことが次につながる

ささいなことでも、子どもが成長、進化する姿を見たときの喜びは、クラブの立ち上げ時も、今日もまったく変わらない、と言う。
 どこに指導の喜びを見いだすかをめぐる佐々木のスタンスは、次の言葉にも通低しているようだった。
「大会でどんな成績をあげるか、それは大事なことではありません。もちろん、子どもたちそれぞれに成長していく中で、たまたま、大きな大会で活躍する選手が出てくる。例えば、高橋大輔君や田中刑事君(倉敷芸術科学大)みたいに。それに続こう、目標にしようとする子も出てくる。でもそれを課しているわけではないし、成績のよしあしを問うこともないですね」
 成績を重視しないのには、佐々木のスポーツへの考え方があった。
「スポーツというのは、結局のところ、勝つのは結局1人だけ。みんな負けるわけです。でも負ければ意味がないかといえばそうではないし、成績の面では負けたとしても、勝つことができるものでもある。自分の中で勝っていればいいからです」
 それはどういうことか。
「私は、『今回はここまでやっておこう』と定めた目標を達成できたかどうかが重要だと考えています。そして、どこまでできたか、次にどこができればよいかを本人がしっかりつかんでおくことができれば、進化できる。誰がどうこうとかじゃないのですね。その進化、自分が伸びたという事実こそ、楽しんでほしいんです。
 いまふうに言えば、パーソナルベストですかね。今日の自分より明日の自分、明日の自分よりその先の日の自分。もちろん、いい日も悪い日もあるでしょう。その中でも、いつも最善を尽くすことが、きっと次につながっていくものだと思います」

「したいことを極めたい」思いが強かった高橋大輔

 ふと、佐々木が以前語っていた、高橋の少年時代の話が思い出される。

「(印象に残っているのは)『誰がライバル?』と聞いても答えを返してこなかったことです。それよりも『僕がしたいことを極めたい』という思いが強い生徒でした。誰に勝つとか負けるじゃなく、中身をちゃんとしたかったのですね」
 それは高橋本人がそもそも持っていた姿勢であったかもしれない。佐々木の影響もあったかもしれない。
 いずれにせよ、2人のスタンスには、相通じるものがあったのだ。
「大会というのは、“人間ドック”みたいなものなんですね。検査を受けて、ここはいいところ、ここは悪いところ、これからはこういうところに気をつけて生活しましょう、と。
 それと同じように、練習を見直して、自分の進化を追求しましょう、それを一緒に楽しみましょう、それが大会なんです。いい負けをしてくれたらいい」
 と、佐々木は笑う。
 指導者であると同時に、あるいはそれ以上に、教育者であるようにも思える佐々木のもとにいたから成長した、育った選手たちもいただろう。
 飽きることなく、子どもたちの成長、進化に喜びを見いだし、20年を超える時間を刻んできた佐々木と倉敷FSC。
 ただ、そのすべてが順調であったわけではない。ときに危機を迎えることもあった。
 それを跳ね返してきた原動力は、佐々木のスタンスにあり、そしてクラブそのものの力でもあった。
(第9回に続く/文中敬称略)

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佐々木が監督を務めるFSCは高橋大輔ら全国大会などで活躍する選手たちを輩出してきた

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子どもたちの成長、進化に喜びを見いだし、佐々木と倉敷FSCは20年を超える時間を刻んできた
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2/13 倉敷で歴史を刻む佐々木美行 フィギュアスケート育成の現場から(7)

(2015-02-13)

報道機関

Sportsnavi

見出し

倉敷で歴史を刻む佐々木美行  フィギュアスケート育成の現場から(7)

配信日

2015年 2月 13日 1820

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201502130003-spnavi

◆内容◆文:松原 孝臣

・グランドオープンを迎えた「ヘルスピア倉敷」

たくさんの人たちが滑っている。
 おそらくはスケートを楽しみに来たであろう、子どもにスケートを教えたい親子がいれば、選手として未来を夢見る子どもが熱心に滑っている。

 熱気あふれるリンクは、どこか真新しさを感じさせる。それもそのはずだ。昨年12月6日、通年化の作業が終わって、「ヘルスピア倉敷」はグランドオープンを迎えたばかりだ。セレモニーには、このリンクでスケートを始め、練習に励んだ高橋大輔らも駆けつけたという。
 倉敷市内中心部から車で約15分ほど、周囲は静かな中、自動扉を抜ければ、そこには活気があふれている。
「夢の一つがかないました。20年以上、願っていたことですから」
 佐々木美行は笑顔を見せる。
 佐々木は、ここを拠点とする「倉敷フィギュアスケーティングクラブ(倉敷FSC)」の監督として、クラブが設立された1993年以来、クラブを率いてきた。
 これまで、多くの選手が育っていった。高橋をはじめ、アイスダンスで活躍する平井絵己(大阪スケート倶楽部)、2011年の世界ジュニア選手権で銀メダルを獲得した田中刑事(倉敷芸術科学大)、2人の姉とともにスケートに励み全日本ジュニア、全日本選手権に出場している友滝佳子(倉敷芸術科学大)らの名前が並ぶ。
 20年を超える歴史を刻み、今日では全国でも有数の存在となった倉敷FSCだが、そのスタートは、「すべて一から。いえ、まさにゼロからと言うのが正しいかもしれませんね」と、佐々木は振り返る。

高橋大輔が小学生のときのまさかの出来事

「大学に入る前は遊びくらいで」
と言う佐々木のフィギュアスケートとのかかわりは、大学生になってから、結びつきを強めていった。
 岡山大学に入学すると、「経験者の少ないものをやりたい」とスケート部に入部する。そして選手として、国体やインカレに出場を果たした。
「大学でいろいろ経験させていただいた分、いずれはフィギュアスケートに対して恩返しをしなければ、という思いがありました」
 その機会となったのが、92年、ヘスルピア倉敷の前身である「サンピア倉敷」がオープンしたことだった。佐々木は誘われてスケート教室のコーチとなり、その翌年、クラブが設立された。
 とはいえ、身近にクラブの運営や形態のモデルがあったわけではない。
「クラブだから名簿を作らないといけないよね、会計もはっきりしておかないといけない、リンクを貸し切る費用は月々の精算にしよう、クラブの運営費は年間で集めよう。やらないと困ることが見つかったら、そこを進める、そんな具合でした」
 そして、「試行錯誤と言えば」と続けながら、このようなエピソードを挙げた。高橋が小学生のときに出場した大会でのことだ。
「広島で行なわれた大会でした。あれは何年生のときだったかなあ。小学生であったのは間違いないのですが」
 そのショートプログラムで、「まさか」と思うほど低い点数がつけられることになった。その理由を知り、愕然(がくぜん)とした。
「要は、やってはいけないことをやったり、やらないといけないことを入れていなかったりというところで、大幅に減点されたんですね。プロの先生の方に作っていただいたプログラムでした。でも、古いルールにのっとっていたために起きたことだったんです。
 ただ任せきりにするのではなく、自分たちもしっかりルールを身につけないといけない、勉強しなければならないと実感したときでした。また、そういうところにもクラブの組織や力というものが表れるんだと思ったことも覚えています」

・保護者全員が主体的に参加するクラブ

では、どのようにして組織の力を培っていったのか。
「みんなで取り組むこと」
 と、佐々木は言う。
「例えばクラブの運営。最初1人でやっていたら、『名簿くらい作りますよ』『これくらいならできるので』と、保護者の皆さんがかかわってくれた。それは今日にも受け継がれています。新人係、衣装係、今ならブログの係とか役割を細分化し、1人ひと役を担いながら、保護者みんなで運営にあたる」
 保護者が携わるのは、そうした運営面ばかりではない。コーチとしてリンクに立つ人もいると言う。
「田中刑事君とか友滝佳子ちゃんが入ってきた頃からですかね。保護者の方が滑れたりしたものですから、入部したての子を見てもらおうと。そうすれば、私がちょっと上の級の子にもっと時間を使えるようになったりするわけです」
 リンクに立たなくても、曲の再生を担ったり、役割はさまざまだ。
 運営、指導、その両面での保護者全員が主体的に参加する体制。そうしたあり方を志向した中核にあったのは、「1人で充実した組織にはならない」という思いだった。
「だって、1人でできることなんて限られているじゃないですか」

組織の中心にいるのは佐々木

 子どもたちの練習風景を保護者が見守るのも日常だ。
 コーチの中には、保護者との間に一線を画す、現場にあまりかかわってほしくないと考える人がいないわけではない。
 運営や指導にも参加するのだから練習風景を見守るのも自然なことだが、倉敷FSCのありようは、それとは対照的だ。
 そして培われた一体感、結束力は、折々に発揮されることになった。
 一方で、皆が携わる組織にあって、その中心にいるのは、やはり佐々木にほかならない。
 佐々木には、スケートを教える上で、始まりから今日まで、そして今後もおそらく変わることのない、確固とした信念があった。
 それは選手にも、たしかに根付いていた。(第8回に続く/文中敬称略)

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昨年12月6日にグランドオープンを迎えた「ヘルスピア倉敷」
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保護者全員が主体的に参加するクラブ。その中心には佐々木がいる



1/29 競技者であり続ける恩田美栄  フィギュアスケート育成の現場から(6)

(2015-01-29)

報道機関

Sportsnavi

見出し

競技者であり続ける恩田美栄  フィギュアスケート育成の現場から(6)

配信日

20151月 29日 1117

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201501260008-spnavi

◆内容◆  松原 孝臣

・「教えるのは簡単なことじゃない」

2002年のソルトレイクシティ五輪出場をはじめ、国内外の数々の大会で活躍。07年春に競技生活から退いた恩田美栄は、その後、指導者を志し、08年5月には「スペリオール愛知FSC」を立ち上げた。
 競技へのこだわりから、プロフィギュアスケーターよりも指導の道を選んだ。
 今日まで教え続ける中で、すべてが順調であったわけではなかった。
 選手とコーチの立場の違いを痛感したのもその1つだ。
「現役のときは、ただ練習すればいいと思っていたから、コーチになっても、『練習しなさい』と言えばするものと考えていたんですね。だから初めの頃は、『右向け、右』みたいな感じでやっていました」
 だが、そうではなかった。
 選手であった頃は、自分がどれだけ頑張ればいいかを考えていればよかった。しかし、何人もの生徒を教えるとなれば事情は異なってくる。1人ひとり性格は違うし、同じアドバイスをしても、受け止め方が変わってくる。その日その日で気持ちも違う。
「例えば、こういう状況ならこんな精神的な状態にあるという選手時代の経験を持っていても、教えている生徒には当てはまらなかったりするということに気づきました。それを知る前は、『こうしなさい』と言っても、それが砕かれるようなことがありました。コーチは単に教えるだけじゃいけないんだと、何年もかけて分かってきました。
 だから、一見スケートとは関係ない話をしたりして、コミュニケーションをとるようにしています。始めた頃には思ってもいなかったですけどね。本当に教えるのは簡単なことじゃない。一番しんどいのは、年に3回くらいあります。自分のやってきたこと、やっていることが正しいのか、自分に問い掛けるときです。そのときが大変かな」

フィギュア人気の実感はあまり感じられない

 それでも、気持ちが切れることはなかった。
「大変なことがあっても、モチベーションそのものはぜんぜん変わらないんですよ。自分は何時間同じことをやっても苦じゃないし、競技者であるという意識、試合に向けて頑張っていく気持ちは今も変わらない」
 そして、今日まで教え続けてきた。
 その年月の間に、フィギュアスケートの認知度や人気や注目度はさらに高まっていった。恩田もそれを認める。
「そうですよね。昔はフィギュアスケートは深夜に放送するくらいのものだったのに、ゴールデンタイムに放送されるのも珍しくないのが今ですよね」
 ただ、「現場」に立つ恩田には、その変化の実感はあまり感じられないと言う。

「ソチ五輪が終わって、スケートをやる子が増えたかと言えば、そんなことはない。バンクーバーの後は増えた実感はありました」
――その背景にあるのは?
 すると、こう答えた。
「やはり、スケートはお金がかかるということもあるのではないでしょうか。自分も現役だった頃、よく続けてこられたなと思います。『うちは賞金のお金でしかやっていけないから。底がついたらおしまい』と言われていましたから。
 ですから、子供にやらせたいという方が来られたときは、最初にお金の話をして確認します。もっとそういう面でも、現場が取り組みやすい環境になればいいのにな、という気持ちになることもあります」

・選手が切磋琢磨していた時代

また、環境という点については、こうも語る。
「名古屋にもう1個リンクがあったらいいのに、と思うこともあります。もうちょっと分散できると練習するには楽なのにな、と」
 そのあとで恩田は「ただし」、と言った。
「環境がどうあれ、その中でどのように練習すればいいのか、育てていけばよいか、工夫していくのも大事だと思います」
 そこには、自身の体験がある。
「私が選手だった頃もリンクは混んでいたんですね。でも、たくさんの選手が育った。思い出すのは、(中野)友加里ちゃん、(安藤)美姫、それに(浅田)真央ちゃんがいたりしたわけですけど、誰かがジャンプを跳ぶと、変な話、いやでも跳ぼうとするというか足がひとりでに動き始めるんです。『私も跳ぼう』と連鎖反応が起こって、ジャンプがエンドレスになっていく。熱意がお互いに伝わっていくと言えばいいのか」
 知らず知らずに切磋琢磨(せっさたくま)していた時代だった。
「みんな、人がいたとしても跳んでいた。混んでいても、ちょっと隙を見つければ跳んだ。1点に集中して跳べば跳べる。ちょっとでも気をそらせると跳べない。あの集中力というのは、すごかったですね。育てる環境としてはよくなくても、奮い立たせる環境としてはよかった。だから、名古屋にいたメンバーには感謝ですね」
 だからこう考えている。
「環境がどうあれ、言い訳することなく、取り組んでいかないと。環境がいいせいで甘えが出ることだってあるわけだし、悪い中でもできることはたくさんありますから」

小さな一歩が大きな一歩に

 恩田のスペリオール愛知FSCは、大きいクラブではない。歴史も新しい。そうそうたるクラブが数ある中で、存在感をどのように出していくのか、それは決してやさしいことではない。
 すると、恩田は言った。
「こんな励ましを受けたことがあるんですね。『小さな一歩が大きな一歩になるから頑張りなさい』。そのつもりです」
 そして続けた。
「リンクに立ったら、もう選手本人がやるしかない。だからこそ、そこに立つまでの、それこそ毎日のプロセスが大事です。そこで悔いのないようにして、選手を送り出したいですね。自分がそうであったように、選手に完璧に演技させたい、それだけを思っていますね」
 いかなる環境でも言い訳せずに取り組みたい。選手を万全な状態でリンクに立たせたい。選手とともに競技者でありたい。
 そこに、恩田美栄の指導者としての信念があった。(第7回に続く/文中敬称略)

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指導者としての道を選んだ恩田美栄だが、すべてが順調であったわけではなかった
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恩田の選手時代、名古屋には互いに切磋琢磨する環境があった



1/20 ガイシアリーナをフィギュア強化センターに認定

(2015-01-20)

報道機関

中日新聞

見出し

ガイシアリーナをフィギュア強化センターに認定

配信日

2015120日 

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20150120/CK2015012002000056.html

◆内容◆

日本オリンピック委員会(JOC)は、二〇一八年の韓国・平昌(ピョンチャン)冬季五輪に向け、名古屋市南区の日本ガイシアリーナを、フィギュアスケートの強化センターに認定した。トップ選手らが合宿練習などに利用する。市が十九日発表した。

 フィギュアのトップ選手向けの練習リンクとしては、「ナショナルトレーニングセンター競技別強化拠点施設」として、豊田市の中京大アイスアリーナが指定されている。

 これに次ぐクラスの練習施設として、日本ガイシアリーナと、ひょうご西宮アイスアリーナ(兵庫県西宮市)が位置付けられた。

 日本ガイシアリーナは毎年十一月から翌年三月にリンクが設けられる。これまで村上佳菜子選手や、引退した鈴木明子選手も練習で利用していた実績から、強化センターに選ばれた。

 国からの財政支援などはないが、トップ選手だけでなく、ジュニア世代を含めた選手の利用が増えることが期待されている。(北村剛史)



1/14 恩田美栄がコーチに専念する理由 フィギュアスケート育成の現場から(5)

(2015-01-14)

報道機関

Sportsnavi

見出し

恩田美栄がコーチに専念する理由 フィギュアスケート育成の現場から(5)

配信日

2015114日 1125

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201501130005-spnavi

◆内容◆  松原 孝臣

・2007年に引退してからの日々

「そうですよね、コーチになって、けっこう年数が経つんですよね」
 恩田美栄は快活に笑う。
 現在、32歳になる。
 名古屋市に生まれ、やがてスケートを始めた恩田は、ダイナミックなジャンプを武器に、2002年のソルトレイクシティ五輪をはじめ、世界選手権や四大陸選手権、グランプリシリーズなどに出場し、日本代表として活躍してきた。
 競技生活から退くことを発表したのは07年の春のこと。
 同時に指導も始め、08年5月には「スペリオール愛知FSC」を立ち上げた。その後、コーチに専念し、今日まで歩んできた。
 練習が休みの月曜日を除き、平日はモリコロパーク、週末は邦和スポーツランド、それぞれのスケート場で指導にあたっている。

・名古屋でクラブを立ち上げる

愛知県名古屋市と言えば、長い歴史を誇り、実績を重ねてきたクラブがいくつも存在している。そして名のある指導者も少なからずいる。その地で、いちからクラブを立ち上げて成り立たせるのは決して楽ではないのではないか。その点に関して、迷いや不安はなかったのだろうか。
 恩田は言う。
「例えば、地域にクラブがない、あるいは1つしかないようなところで始めるのとは違いますね。名古屋って、これだけクラブがあって、しかも大御所の先生方ばかりじゃないですか。そこで独立してやっていること自体、すごいねと言われることがあります」
 立ち上げた動機については、このように説明する。
「自分も若かったので(笑)。作ったらうまくいくだろう、というような感じでスタートしています。安易と言えば安易かもしれませんが、でもそれがいいときも悪いときもあると思うし、やってみればいいと行動した自分はOKだったと思っています」
 そのポジティブなものごとの捉え方が、恩田らしくもあり、思い切った行動へとつながっていた。
「まあでも、今になって思えば、大変なことをやってるよね、とは実感しています」
 本人は苦笑する。

・「選手ではなくても、競技者でいたかった」

先にも記したように、クラブを立ち上げたあと、スケーターとしての活動を停止し、教えることに専念してきた。
 それもまた、思い切った選択ではある。
 恩田も「掛け持ちしたいという気持ちはありました」と言う。
 だが。
「やっていく中で、自分が2つを同時に行なえるほど器用ではないな、ということに気づいたんですね」
 二束のわらじを履いていて、痛感したこともあった。
「ショーの練習は、だいたい3月の終わりから1カ月くらいゴールデンウイークにかけて作り上げていたんですね。掛け持ちするようになって1年目も2年目も、名古屋に帰れる時は帰って教えるようにしていたけれど、やっぱり生徒をほったらかしにしているような気がしたし、それだけ長い期間、放置しているのが苦痛でした。だったらもう、ショーの方をやめて、コーチに専念したほうがいいだろうなと」
 生徒を預かる責任の重さを自覚したことが専念する道を選ばせた。
 加えて、どちらを選択するかを考える際、プロフィギュアスケーターではなく、コーチを選んだのには、現役時代からの一貫した考えが根底にあったからだと言う。
「もともと子供が好きで、教えるほうに進みたいという気持ちはありました。それとともに、競技へのこだわりが強かったということですね。現役であった頃から、フィギュアスケートは芸術を含んだ競技であると考えてきました。言ってみれば、芸術的なスポーツ。競技だからこその独特の緊張感があると思うんです。
 自分自身が選手ではなくなったとしても、競技者でいたかった。その世界に身を置いていたかった。どのように進んでいけばいいのかを考えてみて、自分のそのポリシーは変わっていないことに気づきました。だからエンターテインメントの世界よりも、アスリートとしての世界がいい。自分で演技はしないけれど、コーチとしてもできる、と答えが出ました」

・最後の1年で学んだことが教える上での糧に

恩田は、トリノ五輪シーズンの翌シーズンをもってやめた。五輪のあるシーズンを区切りとする選手が多い中では、珍しいケースと言えるかもしれない。
 そこにも、「教える」ことへのこだわりがあった。
「トリノ五輪の次のシーズンの時は、いずれ指導者になろうという意識はあったんですね。だから、1年かけて、コーチになったときの糧にしたいという思いがありました。というのも、04年から米国、カナダに渡り、競技に取り組む中で、それまで自分が捉えていたフィギュアスケートとは異なる考え方を知ったり、教えられたりしました。それこそ、振り付けがどういうものなのかを学んでいった時期でもあります。それをもう少し勉強したいという思いもあって、1年、続けたんです。今振り返っても、あの時期に学んだりしたことは、教えるときの糧になっていると思いますね」
 そして、コーチとしての現在がある。
 とはいえ、教え続ける中では、さまざまな葛藤があった。悩みだってあった。

「正直、始めた頃は、もっと簡単だと思っていたところがありました」
 選手として培ってきた、学んできたことをどう生かしていけばいいのか。自分が練習してきた頃との違い。
 壁にもぶつかりながら、今日まで進んできた。(第6回に続く/文中敬称略)

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現役時代はダイナミックなジャンプを武器に日本代表として活躍してきた

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月曜日を除き、地元・愛知のスケート場で指導にあたっている恩田美栄

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生徒を預かる責任の重さを自覚したことが、指導者に専念する道を選ばせた

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トリノ五輪の翌シーズン、1年をかけてコーチになったときの糧を得た



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