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1/4  12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (16) スケーター・髙橋大輔の軌跡 part4 【髙橋大輔の軌跡】「精一杯やった」。ソチで見せた最後の舞い

(2015-01-04)

報道機関

Sportive

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12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (16 スケーター・髙橋大輔の軌跡 part4 

【髙橋大輔の軌跡】「精一杯やった」。ソチで見せた最後の舞い

配信日

201514日 

http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/2015/01/04/post_441/

◆内容◆

今年、引退を発表したフィギュアスケーター・髙橋大輔。その軌跡を辿る──。
「これが最後のビートルズメドレーです」

 2014年7月、新潟市で開催された「ファンタジーオンアイス」の最終公演で、アナウンスが会場内に響いた。この日の髙橋大輔のプログラムは、2月のソチ五輪のフリーでも披露した『ビートルズメドレー』のショートカットバージョンだった。

 しなやかで流れるような滑りに続いて、連続でジャンプを跳ぶ予定だったが、そのジャンプでミスが出た。公演終了後、髙橋のマネージャーが「しっかり落ち込んでいますよ」と笑いながら話す。

それでも、その演技はソチでの感動的なフリーを思い起こさせる見事な滑りだった。

 3度目の五輪となった20142月のソチ五輪に、髙橋は満身創痍で臨んだ。201311月末の練習で発生した右脛の骨挫傷は年が明けても完治せず、本番が近づいても調子は上がってこなかったのだ。精神的に追い込まれ、空回りした時期もあった。

「今の自分をすべて受け入れて、やれることをやるだけ。メダルをあきらめたくはない」

 そう考えて乗り込んだソチだったが、冷静に見れば、メダル獲得は厳しい状態だった。ショートプログラム(SP)では4位につけたものの、表彰台は遠かった。フリーでは奇跡を祈る思いで跳んだ冒頭の4回転トーループがダウングレードに終わり、願いは叶わなかった。


 ソチ五輪の4年前の2010年、髙橋は2月のバンクーバー五輪で銅メダルを獲得、続く世界選手権で頂点に立った。そのことで次の目標を見失いそうになりながらも、髙橋は現役続行を決めた。

20102011シーズンは、グランプリシリーズのアメリカ大会、NHK杯で連勝。12月のグランプリファイナルでは公式練習中に小塚崇彦と衝突するアクシデントが発生し、4位に沈んだ。だが、続く12月末の全日本選手権では「ここで終わったなと言われるのが嫌だったから、がむしゃらにいった」と、世界王者の意地を見せて3位。113月の世界選手権代表の座を手にした。

 この頃の髙橋は、何かすっきりしない気持ちで競技と向かい合っていたという。

 長光歌子コーチは「シーズン前半は、試合へ向けての戦う気持ちがないと感じたし、闘争心もない状態で練習をしていた」と明かした。髙橋本人も「自分でもどうしていきたいのかわからず、ずっと迷っている感じだった」と、当時のことを振り返っている。

 そんなモヤモヤした気持ちが吹っ切れたのは、114月の世界選手権だった。311日の東日本大震災のため、予定されていた東京開催が中止になり、モスクワで代替開催になったこの大会、髙橋は5位。思うような演技がほとんどできない惨敗だった。

「こんな最悪な負け方で終わりたくない」と、負けず嫌いの虫が頭をもたげてきた。優勝したパトリック・チャン(カナダ)が、SP、フリーともに当時の世界歴代最高の280.98点を記録したことも、髙橋の気持ちに火をつけた。

 2011年5月、髙橋は右膝のボルト除去手術を受けた。6月には「1年では結果が出ないだろうし、崩れることもあると思う。だからあまり焦らず、3年で自分のスケートをつくりあげていこうと思う」と、将来について言及。それはすなわち、2014年のソチ五輪を目指すことを意味していた。

 20112012シーズン、11月のNHK杯のSPで9043点と自己最高点を出した髙橋は、フリーでは「どちらにするか迷ったが、6分間練習で初めて成功したのでやってみた」と4回転フリップにも挑戦。回転不足にはなったが優勝を決め、再び存在感を示した。その後、12月のグランプリファイナルで2位、12月末の全日本で優勝を果たすと、12年の世界選手権(ニース)では、チャンに敗れたものの2位になり、シーズン前の不安を一掃する結果を残した。

五輪プレシーズンの20122013シーズンは、中国大会で2位、NHK杯で2位。グランプリファイナルでは同大会日本人男子初の金メダルを獲得し、ソチへ向けて順調に歩を進めていた。

 だが、2013年に入って、四大陸選手権で7位、世界選手権で6位と苦戦。さらに、五輪シーズンには髙橋に再び試練が襲いかかった。グランプリシリーズ初戦のアメリカ大会で4位。その後、気持ちを切り換えたNHK杯で優勝し、グランプリファイナル進出を決めたものの、大会前に練習で膝を痛めて欠場。ケガが癒えぬまま出場した全日本選手権では5位に終わった。

 それでも、それまでの実績を評価され、髙橋はソチ五輪代表に決まった。そのシーズンの成績や、演技構成点の高さを考えれば、髙橋の選出は誰もが納得するものだった。ソチで4回転を跳ぶことができれば、メダル獲得の可能性は十分にあった。

 しかし、ソチのフリーの4回転ジャンプで失敗。勝利の女神は髙橋に微笑まなかった。だが4回転に失敗しても、髙橋のスケートへの思いは途切れなかった。

「ジャンプがダメなら見せ場は滑り。表現どうこうではなく、精一杯やろう」

 開き直った髙橋の演技から、気負いや雑念は消え去った。

『ビートルズメドレー』の滑りは、静謐(せいひつ)な波となってうねり、観客の心に染み込んでいった。五輪のメダル争いの緊張感にとらわれて力みが出ていた最終組の選手の中でただひとり、髙橋は見事な表現力と、感性の舞いを見せた。そのとき氷上には、あるがままの髙橋大輔がいた――。

ソチ五輪の結果は6位。大会後、3月の世界選手権出場を辞退した髙橋は、1年間の競技休養を表明した。そして201410月、現役引退を発表。ソチ五輪のフリーが競技者・髙橋大輔としての最後の舞台になった。

彼の引退発表を聞いたとき、ソチのフリー演技後の髙橋の表情を思い出した。髙橋は、「いろんな気持ちが入り交じっていて、本当に複雑な気持ちです。悔しいのは悔しいし、力を出し切れてはいないし……。でも、精一杯やったな、とは思う」と言って笑った。

「フィギュアスケートという競技を選んで、五輪という大舞台に3回も出させてもらえたことは、本当によかったと思います。この競技をやっている限り一生満足はしないし、悔やむことはたくさんある。『あの時もうちょっと強くなれていたら』ということは、これまで何回もありました」(髙橋)

 選手たちは常に、“完璧”という果てしない夢を追い求める。そして、それを手にできるのは、スケート人生の中で一度あるかどうか。髙橋もまた、世界のトップクラスで戦うようになって以来、自らが思い描く理想の滑りを追求し、戦い続け、そして自らピリオドを打ったのだ。

 日本男子フィギュアスケートの新たな道を切り拓いてきた髙橋大輔。彼がその手に掲げていた灯火(ともしび)は、後進たちの大きな指標になった。その功績は燦然と輝き続け、その情熱は、次に続く若い世代に引き継がれていく。

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ソチ五輪は総合6位に終わった髙橋大輔

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ソチ五輪のエキシビションで笑顔を見せる髙橋大輔

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12/30  12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (15) スケーター・髙橋大輔の軌跡 part3 【髙橋大輔の軌跡】バンクーバー五輪までの険しい「道」で得たもの

(2014-12-30)

報道機関

Sportive

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12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (15 スケーター・髙橋大輔の軌跡 part3 

【髙橋大輔の軌跡】バンクーバー五輪までの険しい「道」で得たもの

配信日

20141230日 

http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/2014/12/30/post_439/

◆内容◆

今年、引退を発表したフィギュアスケーター・髙橋大輔。その軌跡を辿る──。
200810月、髙橋は練習中にケガをして、右足の前十字靱帯と半月板の損傷という重傷を負った。「このケガをして、手術後に復帰したフィギュアスケート選手は過去にいない」ということも聞かされたという。それでも髙橋は、手術を決意した。手術をしないで、だましだまし競技を続けることも可能かもしれない。だが、それでは世界の頂点は狙えない。一か八か勝負をすべき、と考えたのだ。

 ただし、手術をすることは、五輪イヤーの前年である0809シーズンを棒に振ることを意味していた。髙橋はその覚悟をして手術に踏み切り、復帰を目指したリハビリの日々が始まった。足の筋肉を奥の方からほぐし、しっかり動かせるようにするところから始めたが、痛みは体を突き刺すように激しい。1日8~9時間のリハビリが毎日続いた。

 そんな辛い日々に悲鳴をあげたのは、体ではなく心の方だった。髙橋は年が開けた09年2月のある日、気持ちがスッと切れてしまい病院へ行くのをやめた。20102月のバンクーバー五輪開幕は1年後に迫っていた。

 それから約1週間、髙橋は誰とも連絡をとらなかった。ある時は「目的もなくフラッと新幹線に乗り、適当な駅で下りて時間を潰して戻ってきたこともあった」(髙橋)という。自分は氷の上で滑ることもできない。それなのに、時間は待ってくれない。情けない行動に自己嫌悪を感じながらも、次のために動き出すことができなかった。

 長光歌子コーチは、ずっと連絡が取れなかった髙橋がフラッと自分の家に来た時、「もうこれ以上あの子を追い詰めるのはかわいそうだ。自分が周りの関係者に謝るだけ謝って、彼をもうスケートから解放させてあげよう」と思ったという。

 そんな長光コーチや担当医師、マネージャーやトレーナーなど、周囲の心遣いを感じた髙橋は、自分の心に問いかけてみた。「お前はもう、スケートをやりたくないのか?」と――。そこで気がついたのは、自分が「まだスケートを捨てたくない」と思っていることだった。

再び厳しいリハビリ生活に戻った髙橋は、09年4月上旬には氷上練習ができるまでになった。6月からはジャンプも跳び始め、09-10シーズンに何とか間に合いそうな状態まで回復してきていた。

 リハビリを経て、新たに手に入れたものもあった。故障の一因に足首や股関節の硬さがあったことを知り、徹底的な肉体改造も同時に行なったのだ。「下半身の可動域が広くなり、ステップもスピンもこれまでよりひと回り大きな動きができるようになった」と、髙橋は後に語っている。

 10月のフィンランディア杯で試合に復帰した髙橋は、11月にNHK杯に出場。そこで見せた彼の動きは、以前とは印象が違っていた。ジャンプへの入りはかつてよりもはるかに柔らかく、力みのない動作になっていた。試合はSPで4位発進。逆転を狙ったフリーでは4回転ジャンプだけでなく、他のジャンプでもミスを繰り返して順位を上げることができず、総合4位に止まった。

 長光コーチは髙橋の回復を認めながら、新たな問題についてこう語った。

「今まで以上に(関節が)動くようになった分、それに合ったスケート靴の位置や、エッジの位置も変わっているんです。今はそれがどこなのかを見つけているところ。そういうところが微妙に違うだけで、ジャンプの感覚が変わってしまうんです」

 スケート靴という道具を使って氷の上を滑るフィギュアスケートは、力の入り方などが違ってくれば、スケーティングやジャンプの瞬間の微妙な感覚にズレが生じる。リハビリを経て進化した体を十分に使いこなして最高の演技をするためには、新たな感覚を身につけなければいけない。取り戻すのではなく、「新しい髙橋大輔をつくる」作業が必要だった。髙橋は、バンクーバー五輪までの短い時間で、それに取り組まなくてはいけなかった。

 その後、髙橋は12月のグランプリファイナルにも出場したが、総合5位。いまひとつ波に乗りきれないでいた。それでも、12月末の全日本選手権では底力を見せた。

「何があってもまとめられるだろうという感じになってきた」というSPでは、2位の小塚崇彦に12点以上の差をつけて首位発進。フリーで4回転が回転不足になるなど、いくつかミスは出たが、丁寧な演技で完全優勝を果たした。

 しかし、五輪代表の座をつかんだ髙橋は「優勝は嬉しいが、まだ自分の目指す演技ができるまでにはなっていない。堂々と五輪に行ける演技ではないので、ここで喜んでいてはダメ」と気を引き締めた。

2回目の五輪となるバンクーバー大会を、髙橋は「メダルを狙う大会」と位置づけて戦い抜いた。4回転ジャンプの感覚はまだ戻っていなかったが、それ以外の問題はほとんどなかった。その状態の良さは、SPの完璧な演技に表れていた。得点は9025点で、トップのエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)と060点差の3位。

「自分は練習してきたんだ、ということだけを信じてできた。得点を見た時にプルシェンコとそんなに離れてなかったので、フリーに向けて変なプレッシャーがなくていいかなと思った」と、髙橋は満足気な表情を見せた。

 2日後に行なわれたフリーは、先に演技をしたSP2位のエバン・ライサチェク(アメリカ)が4回転を回避して16737点を出し、合計を25717点にした後の演技となった。

 髙橋は冒頭の4回転で転倒したが、その失敗を引きずることなく、その後はわずかなミスで演技を終えて15698点を獲得。合計を24723点にしてその時点で2位につけた。

 その後、SPトップのプルシェンコには抜かれたが、髙橋はついに日本人男子フィギュアスケートで初となる五輪での銅メダルを獲得した(金メダルはライサチェク、銀メダルはプルシェンコ)

「このメダルは僕にとってはご褒美だと思う。ケガをしたことはこれからの僕のスケートや人生にとって、すごく勉強になった。今回は失うものがなかった。これが最後ではなく通過点だと思っている」

 笑顔で胸を張った髙橋の表情は晴れやかだった――。

 そのバンクーバー五輪の1カ月後、世界選手権(トリノ)で髙橋はさらなる進化を見せた。SPでトップに立つと、フリーでは冒頭の4回転フリップを着氷。これは惜しくも回転不足になったものの、その後はほぼノーミスで優勝を決め、日本人男子初となる世界の頂点に輝いた。

 五輪メダル、そして世界チャンピオンの座を獲得した髙橋が、このまま引退するのではないか――。世界選手権が終わってからはそんな憶測も出るようになっていた。だが、髙橋は現役を続けた。ケガの後に手に入れた“新しい体”で再び世界に挑戦する新たな道を歩み始めたのだ。

つづく

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バンクーバー五輪で銅メダルを獲得した髙橋大輔。だが、その道のりは平坦ではなかった



12/25  12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (13) スケーター・髙橋大輔の軌跡 part2 【髙橋大輔の軌跡】トリノ後の着実な進化。そして、アクシデント

(2014-12-25)

報道機関

Sportive

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12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (13 スケーター・髙橋大輔の軌跡 part2 

【髙橋大輔の軌跡】トリノ後の着実な進化。そして、アクシデント

配信日

20141225日 

http://www.sankei.com/premium/news/150104/prm1501040003-n1.html

◆内容◆取材・文:折山淑美

今年、引退を発表したフィギュアスケーター・髙橋大輔。その軌跡を辿る──。
 06年2月のトリノ五輪が、髙橋にとって初めての五輪だった。ショートプログラム(SP)で5位につけた髙橋は、フリーで最終組となった。しかも、ドローの結果は最終滑走。SPで9066点を出したエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)を筆頭に、ジョニー・ウィアー(アメリカ)やステファン・ランビエール(スイス)、ブライアン・ジュベール(フランス)、ジェフリー・バトル(カナダ)という錚々たる顔ぶれのスケーターの演技後になってしまった。

「練習を終えてから待っている間は緊張していなかったのに、滑り出した途端にすごく緊張して……。身体が全然動かなくて焦ってしまった」

 演技後にそう語った髙橋は結局、フリーは9位で総合は8位。入賞とはいえ、悔しさの残る結果となった。

「全体的に落ち着かなくて、トーループを前に跳んだのを忘れてまた跳んで、頭の中は真っ白になってしまって……。4回転ジャンプもスピンも、練習中はできていたのに、本番ではバテてしまって失敗した……。不満いっぱいの演技でした」

 そう落胆しながら、髙橋はこうも言った。

「昨シーズンの状態で五輪へ来ていたら、もっと大変なことになっていたでしょうね。焦ってしまっても今日の出来というのは、自分が成長したことだとも思います。守りに入ったのではなくて挑戦できたからよかった。これがスタートだと思って、もう一度初心に戻ってやり直します」

 演技終了後に呆然としていた前年の世界選手権とは違い、この日の髙橋は、悔しそうな表情を見せていた。このシーズンはGPシリーズ初戦のアメリカ大会で優勝し、ファイナルは3位で表彰台獲得。その自信に加え、「自分が戦う舞台は世界だ」と強く認識できたのだろう。トリノで見せた悔しげな表情は、それを確信させるものだった。

本気で世界トップを狙う意欲を持てるようになった髙橋は、翌0607シーズン、一気に成長した。初戦のカナダ大会で2位となると、NHK杯ではSPで自己最高の8444点を出して1位になり、さらなる躍進を予感させた。

「カナダで自分の演技を出し切れなかったので失敗はしたくなかった。4回転を入れた構成ではないので満足というのはないけれど……」

 SP後にそう話した髙橋は、翌日のフリーでは2シーズンぶりに4回転ジャンプを決める完璧な演技で16349点を獲得。合計でも24793点にしてNHK杯で初優勝を果たした。そして12月のGPファイナルでは腹痛や吐き気がある最悪な体調ながら日本人男子過去最高の2位となった。

 その後、12月末の全日本選手権で優勝した髙橋は、07年世界選手権東京大会に出場。世間の注目はこの大会で優勝した安藤美姫や2位の浅田真央、3位のキム・ヨナ(韓国)に集中していた。そんななか、髙橋はSPで冒頭の3回転連続ジャンプが乱れて、「今シーズン最低の出来でした」と言うものの3位発進。しかし、フリーでは4回転トーループの着氷で手をつくミスだけに抑えてトップの16344点を獲得。合計でランビエールを逆転できなかったが、ファイナルに続いて日本男子過去最高の2位になった。

「うれし泣きをしたのは初めて。トリノを経験してからスケートに対する気持ちが強くなった。ステファン(・ランビエール)には勝てなかったけど、フリー(1位)の小さな金メダルがもらえたのはうれしい」

 こう話した髙橋は、織田信成が7位になって翌年の世界選手権の日本男子の出場枠が3になったことに「これで日本の男子のレベルも上がってくると思うので、貢献できてよかった」と、満足の笑みを浮かべていた。

 そんな髙橋が、さらにその才能を発揮するようになったのは、SPに『白鳥の湖ヒップホップバージョン』を使用した翌0708シーズンだった。「このプログラムを作る前に、ニコライに連れられてニューヨークのマンハッタンへ行ってダンスレッスンを受けた」という。

それまでも髙橋のステップは「世界トップレベル」と評価されていた。しかし、ピップホップの曲に乗ったその滑りは、技術の高さを活かしたさらに切れ味のあるもので、これまでにはなかったような表現世界だった。「昔から音楽がかかると自然に身体が動き出していた」という髙橋のダンサーとしての資質が前面に出て、表現力でも高く評価されるようになった。

 その勢いは成績に直結した。GPシリーズはアメリカ大会、NHK杯で連勝。12月のGPファイナルでは、SPで1位になり、フリーではジャンプのミスが出てランビエールに逆転されたが、総合2位になって3年連続で表彰台を獲得した。そして、12月の全日本選手権ではSPで2位に12点以上の差をつけると、フリーでは4回転トーループを2回決めて16915点を獲得。合計25458点で圧勝した。

「朝の練習でニコライに『今日はやるぞ!』といわれて心の準備をしていた。4回転が2本決まったのは初めてなので、そこは自分に拍手を送りたいけど、ステップやスピンは今シーズン初めてというくらいにバテてしまったので、内容的には不満です」

 髙橋はそう言ったが、2位だった小塚崇彦との得点差は35点以上と、圧巻の全日本3連覇達成となった。

 その後、08年2月の四大陸選手権では、フリーで再度2回の4回転ジャンプに成功して17584点を獲得。フリー、合計点(26441)ともに、プルシェンコがトリノ五輪で出していた当時の世界歴代最高得点を塗り替えた。

 だが、優勝候補として臨んだ3月の世界選手権では「ある意味守りに入ったかな、というところもあって、アクセルを跳ぶ前に緊張してしまった」と、SPではトリプルアクセルでミスが出て3位。そしてフリーでは「4回転は1本にしようとニコライに言われたが、逃げたくなかったので2本にした」という2回目の4回転トーループで転倒。さらに中盤の連続ジャンプを予定していたトリプルアクセルでも転倒したうえ、最後の3回転ルッツに連続ジャンプをつけたことが、4回目の連続ジャンプとの判定で0点になる痛恨のミス。結局4位と表彰台を逃すことになった。

SPで3番だったから挽回しようと思って頭の中で考えすぎた。勉強不足です」                    

 髙橋はうなだれていたが、それでも10年バンクーバー五輪のメダル獲得へ向けて、着々と準備を整えているのは間違いなかった。

 日本でフィギュアスケートは女子ばかりが大きく注目されていた時代、男子の存在感を引き上げてきたのが髙橋だった。その彼を追う織田や小塚の成長もまた、髙橋の存在があったからといえる。だからこそ、バンクーバー五輪で今までの功績の証として髙橋にメダルを手にしてもらいたい──。周囲の誰もがそう熱望していた。

 だが、07-08シーズンが終わると、髙橋に突然の不運が襲いかかった。ニコライ・モロゾフコーチがライバルの織田ともコーチ契約をしたため、3年間続けてきた師弟関係を解消したのだ。さらに、0810月末の練習中、髙橋はジャンプの着地で右膝を痛めてしまう。出場予定だった中国大会の欠場を決めて精密検査を受けると、前十字靱帯と半月板損傷と判明。思った以上の重傷だった。

 五輪という大舞台がある09-10シーズンのひとつ前のシーズンでの大ケガ。08-09シーズンをすべて休養することになり、皮肉な運命を恨みたくなる気持ちにさえなった。

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2006年トリノ五輪は、8位入賞という結果に終わった髙橋大輔



12/19 【髙橋大輔の軌跡】2005年、日本男子フィギュアのエースが泣いていた 12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (10) スケーター・髙橋大輔の軌跡 part1

(2014-12-19)

報道機関

Sportiva

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【髙橋大輔の軌跡】2005年、日本男子フィギュアのエースが泣いていた 

12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (10 スケーター・髙橋大輔の軌跡 part1

配信日

20141219日 

http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/2014/12/19/2005/

◆内容◆取材・文:折山淑美

 20142月のソチ五輪の後、3月の世界選手権出場を辞退した髙橋大輔は、1年間の競技休養を表明した。そして201410月、現役引退を発表――。

ソチ五輪のフリーが競技者・髙橋大輔としての最後の舞台となり、日本男子フィギュア界の道を切り開いてきた第一人者は、その戦いに静かに幕を引いた。

 日本フィギュアスケートの歴史にいくつもの”初”という文字を刻んだ髙橋大輔。日本男子初の五輪銅メダル(2010年バンクーバー五輪)、世界選手権優勝(2010年)、グランプリファイナル優勝(2012年)など、数え上げればきりがない。その最初の「初」が、初出場した2002年世界ジュニア選手権での日本男子として初となる優勝だった。

 当時の男子フィギュアスケートは、02年ソルトレークシティ五輪で4位になった本田武史の実力が突出していた時代。サルコウとトーループの2種類の4回転ジャンプを跳び、世界選手権で02年から2年連続で銅メダルを獲得した本田は、髙橋にとって追いかけるには遠過ぎる存在だった。

 髙橋は、シニアに移行した0203年は、全日本選手権4位で四大陸選手権代表に抜擢されたが13位。本田がケガで休養した0304年には全日本では3位になり、四大陸選手権上位選手として世界選手権に出場して11位。シニアの厚い壁に跳ね返された。

 一方、女子フィギュアスケートでは、世界選手権2年連続3位(02年、03)の村主章枝や、04年世界選手権優勝の荒川静香に加え、女子で史上初の4回転サルコウを成功させた当時15歳の安藤美姫の登場で一気に注目を集め始めた頃だった。しかし、男子の注目度は上がらず、髙橋自身は苦戦続きだった。

0405年シーズン、髙橋は本田とともに世界選手権代表になったが、その大会は2006年トリノ五輪の出場枠獲得がかかった重要な大会だった。髙橋は予選A組6位とまずまずの発進。だが、全日本王者として出場した本田が練習で左足首を捻挫。さらに、予選B組の最初のジャンプで転倒して動けなくなり棄権してしまったのだ。

 突然、19歳の髙橋の背中に、五輪出場権獲得の全責任がのしかかり、トリノ五輪出場枠を2つ獲得するには、10位以内に入ることが必要になった。そんな状況で、髙橋はSP7位と好位置につけたが、フリーでは冒頭の4回転ジャンプが2回転になったうえに転倒。終盤のジャンプも転倒やミスを連発してボロボロの演技になった。

「ショートプログラムまでは何とかやり終えることができたけど、最後は2枠を確保しなければいけないということで、頭の中がいっぱいになってしまった。ウォーミングアップの時から焦ってソワソワしていたし、そのうえ4回転が跳べなくて、余計に焦ってしまって……」

 本田という大きな存在がいて、まだ日本でトップを獲れていない状況。試合後、記者に囲まれて話をする髙橋の表情には、まだ幼さも垣間見えた。髙橋のフリーは18位。予選とショートプログラム(SP)を合計した総合順位は15位になり、トリノ五輪の日本男子出場枠は「1」になってしまった。

 迎えた0506年トリノ五輪シーズン。この年から、これまで指導を受けてきた長光歌子コーチとともに、ニコライ・モロゾフコーチの指導も受けるようになった髙橋は、アメリカ大会でグランプリシリーズ初優勝を果たすと、グランプリファイナルでも3位と急成長。そして、勝利した選手がトリノ五輪出場となる12月の全日本選手権では、織田信成との激しい争いとなった。

 05年3月の世界ジュニアで髙橋に次ぐ日本人2人目の優勝を果たし、このシーズンからシニアに移行した織田は、11月のNHK杯では髙橋を抑えて優勝。グランプリファイナル4位と急成長していた。その織田は、全日本のSPで完璧な演技をして7990点で首位。それに対して髙橋は、トリプルアクセルでミスをして5・38点差の2位発進となってしまった。

翌日のフリーは、最初に登場した織田がSPと同じように伸び伸びした演技でほぼパーフェクト。合計22610点でトップに立った。一方の髙橋は、フリーの得点こそ織田を上回る14860点だったが、合計では22312点に止まった。

 演技終了後、髙橋は「自分の演技を見てもらうことだけを意識しようと思ったけど、五輪へ行きたいという気持ちを抑えられませんでした……」と話し、流れる涙を「悔し涙です」と説明した。「五輪には手が届かなかった」と髙橋はあきらめていたが、表彰式終了後に事態が急変する。織田のフリー演技の得点に集計ミスがあったとして変更されたのだ。

 織田は冒頭のトリプルアクセル+3回転トーループ+3回転ループの最後のループが2回転になっていた。そのため、中盤の連続ジャンプの後半の2回転トーループを3回転にした。その結果、失敗した冒頭のジャンプが3回転に挑戦したと判断され、「2回跳べる3回転ジャンプは2種類のみ」というルールに抵触。最後に跳んだ2回目の3回転ルッツが0点になり、当初の得点から740点が引かれた。この結果、髙橋の勝利とトリノ五輪代表が決まった。

 混乱の中でトリノ五輪出場権を獲得し、髙橋はこう語った。

「SPでもフリーでもトリプルアクセルを失敗しました。もしちゃんとやっていれば文句なしに勝てていたと思う……。やっぱりそれは自分のミスです。優勝して五輪代表に決まったとはいっても気持ちは複雑で、素直には喜べない」

 初めて全日本選手権を制したとはいえ、それは自分の力でもぎ取ったとはいえないような状況に、髙橋は困惑していた。初の五輪代表をどう受け止めればいいかと考えてしまう迷い、割り切れないような彼の表情が、今でも印象に残っている。

>>つづく

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ソチ五輪では6位だった髙橋大輔



11/21 【髙橋大輔時代から引退まで】を佐野稔先生と振り返る

(2014-11-21)

報道機関

J sport

見出し

【髙橋大輔時代から引退まで】を佐野稔先生と振り返る

発行日

20141121日 1912

http://www.jsports.co.jp/press/article/N2014112118432906.html

◆内容◆ テキスト・インタビュー:島津愛子 Aiko Shimazu

J SPORTSがお送りするフィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋11月のゲストは髙橋大輔さんです。1125日のエピソード4放送の前に、【髙橋大輔時代】を佐野稔先生と振り返ります。

【髙橋大輔時代】を振り返るためのウォームアップはコチラ

◆男子シングル『第一次四回転時代(60ポイント制時代)』2006年トリノ五輪前

技術を駆使して芸術を魅せる「表現力」の総帥である髙橋大輔さんは、アスリートの中のアスリートでもあります。
ロベルト・カルロス並に弾む、全身バネのような恵まれた体躯から、右膝前十字靭帯断裂後の奇跡の肉体改造を経て、23歳から、バネは鋼鉄と化しました。一方で、筋肉ではなく関節に柔軟性を持たせ四肢の可動域を増すことで、しなやかさは力強い華となりました。
165cm
と小さな体で大きな怪我を乗り越え、弾性とパワーという相反する肉体を身一つで極めたそのフィジカルは、「小さい頃から突出していた」と佐野先生は回想されます。

【佐野先生が見た髙橋大輔時代(1)】

僕は大輔が中学生の頃に教えたことがある。その時に「まあ、なんと素晴らしい感覚だ!」と。『ジャンプを飛ぶ能力』!「これは凄いものを持ってるぞ!」っていう子だったんだね。

確かトリプルループだったと思うんだけど、「やったことない」って言うから「こうやってこうやってみ。」って口で説明したらポンッと飛んだの!合宿の4日間の内に出来ちゃった。「そんな奴が世の中にいるのか」ってビックリしましたね。(その後、佐野先生の手引きで長久保裕先生の指導も受ける。)
トリノ五輪前の男子シングル界にはプルシェンコをはじめ、日本には本田武史・(当時指導されていた)田村岳斗もいた。その日本男子の後を継ぐ存在で、ジャンプやステップで物凄い素質を持っていながら力を出し切れない、「精神面が弱い」という印象がありましたね。……だからなんて言うかなー、その頃はいまひとつ、僕も褒めていなかったと思う(笑)大輔が本当に良くなったのは……これから後の話だね(笑)

……と癒し系な佐野先生が語る「物凄い素質」は、19歳のトリノ五輪シーズンに世界で開花します。
2005
年スケートアメリカでISUグランプリシリーズ初優勝・グランプリファイナル初出場3位・全日本選手権初優勝・2006年トリノ五輪8位入賞と、シニアの階段を一気に駆け上りました。
SP
(ショートプログラム)『ロクサーヌのタンゴ』FS(フリースケーティング)『ピアノ協奏曲第2番(ラフマニノフ)』の演技では、四回転は決めていないものの、リズムの裏を刻む踊り、陸のダンサーに敗北感を与えるクラスの頭のアクセント(首を動かして、頭と体の動きを違えることで踊りに表情を出す)、動きで音楽にアレンジを加えるレイバックスピン、情念を発する一挙手一投足、とおなじみの髙橋大輔さんの姿があります。
怪我をする前の、制すことのないスピードと弾けるジャンプには、触れることの出来ないような19歳のアツさがありました。

◆男子シングル『冬・四回転時代』 トリノ五輪後~バンクーバー五輪

新採点システム(ISU Judging System)対応型の「得点を積算していくプログラム」が奏効したこの時代は、髙橋大輔さんにとって飛躍と(怪我による)挫折と栄光のステージでした。

【佐野先生が見た髙橋大輔時代(2)】

僕が最初に大輔を見た頃は「ジャンプのすげぇ子」という印象だった。でも次第に、この頃になると「表現したい」という本人が持っていた気持ちが出て来たんでしょうね。同時に「弱っちぃ大輔」はいなくなった。
それでも、2007年の世界選手権銀メダルは驚いたね!僕が初めて銅メダルを取って(1977年・東京)、本田武史が銅メダルを取る(2002年・長野、2003年・ワシントン)まで四半世紀かかってるんだから!そこから4年で銀メダルを取った。バンクーバー五輪の銅メダル(2010年)、世界選手権金メダル(2010年・トリノ)……結局、髙橋大輔という男は、『日本男子の歴史を全て塗り替えた男』なんですよ。

僕はアイスショーで「フィギュアスケートは、音を表現すれば成立する」と思ってやって来た。演歌を使ったこともある。「雨だれ」でも、音を表現出来ればフィギュアスケートは成立するんですよ。「音楽のジャンルは問わない」、それがフィギュアスケートだと考えていた。だからあのヒップホップの『白鳥の湖』(20072008SP)は「出来るじゃんーーーー、ここまで!」って。髙橋大輔だから表現出来た。「こういうフィギュアスケートを待ってたよ!」というものでしたね。

男子シングル界は60ポイント制と新採点システム(ISU Judging System)の端境期だったんだけど、四回転に挑戦しても「60のスケート」から抜けられない選手がいた中で、大輔は四回転も入れながら非常にうまく乗り切った。60時代から持っていたエッジワーク(スケーティング、ステップ)の正確さが活きたんじゃないかなと思いますね。(2008年四大陸選手権のフリーで2回四回転を決め総合得点「26441」の当時のワールドレコードを打ち立てる。)

バンクーバー五輪の前のシーズンに怪我(右膝前十字靭帯断裂)をして、そこから大輔は「一選手」から、「日本の大黒柱」一家で言えば「親父」的な存在になったんじゃないかな。髙橋大輔を皆頼りにして、日本スケート界が大輔を中心に回っていたと思うんですがね、私は。あの怪我を乗り越えたことで、精神的支柱、『皆を支える強さを持った男』になった。

【冬・四回転時代の名演技】

・佐野先生も「待ってました!」の『白鳥の湖』(飛躍を遂げた20052008シーズンに師事したニコライ・モロゾフコーチの振付)や20072008EX(エキシビション)KENJI先生振付の『Bachelorette』の革命的な演技
・バンクーバー五輪シーズンの集大成的な演技で、得意のタンゴをスタッカートにもレガートにも魅せたKENJI先生振付のSPEye』、怪我から立ち上がれたその希望と強さを、笑いと優しさで描いていったFS『道』(パスカーレ・カメレンゴさん振付)……

と全部振り返りたいところですが、フィギュアスケートの醍醐味をもたらしたのが日本人初の銀メダルに輝いた2007年世界選手権FS『オペラ座の怪人』の演技です。

2007年世界選手権FS『オペラ座の怪人』(ニコライ・モロゾフコーチ振付、フリー1位)*
ショートを終えて3位で迎えた最終グループの5番滑走。上位を争う選手達の好演技が続き、会場の東京体育館は髙橋大輔さんの登場で最高潮を迎えます。
スタート位置に着き『Masquerade』のオルゴールが流れる間、息を整え緊張を鎮める21歳のファントム。ファントムのテーマが始まると1回転して気高く両手を広げ開演を告げます。冒頭の四回転こそ片手を付きますが、様々な曲に合わせて移り変わるシーンのように、2本のトリプルアクセル・スピン・ステップでオペラ座の怪人の舞台が目くるめく展開していきます。
情感を送りながら烈火のごとくジャンプを決めていく「泣き」のメロディーの『Point of No Return』に続く魅せ場。ラストのステップの始まりに正体(醜い顔)を暴かれるファントム。憎しみや哀しみ、抗えない愛に苦しむファントムの演技に、東京体育館が一つになります。手拍子でファントムを支える会場。応援が物語を盛り上げるというフィギュアスケートの他にはない得難い瞬間が訪れた後、仮面を外したファントム、髙橋大輔さんの目から涙がこぼれました。

◆男子シングル『鬼・四回転時代(第二次四回転時代)』 2011年世界選手権~

パトリック・チャン選手が髙橋大輔さんのワールドレコードを1657点押し上げ総合得点「28098」をマークした2011年世界選手権から、男子シングルは再び四回転時代に突入します。
2010
年全日本選手権で、心技体が揃わない中FS『ブエノスアイレスの冬』でショーマンシップを燃やしショート4位から総合3位となり、その世界選手権に出場。
御本人が「惨敗(フリー本番で靴の故障があり総合5位に)」と評した2011年世界選手権は「これからの3シーズンは、みじめなものになるかもしれない。でも、ソチまで続ける。」と決起した試合でもあります。

新シーズンに入った2011年秋のインタビューの、その決意の言葉です。
「昨シーズンのモスクワ世界選手権で惨敗して、すごく新しい気持ちになって!若手も伸びて来て、実力のある選手も台頭して、ソチに行けるかどうかも分からない今、『これから3年間、どうやって自分は戦っていこうかな?』というのが新たなモチベーションになっています。若い子に、はじっこに追いやられるかもしれないけど(笑)『3年後、自分はどこのポジションにいるのかな?』と楽しみにして。新しいことに取り組んで、自分に対する期待感で一杯です!……みじめになっても、やるだけのことはやって。だめだったら『……だめだった!』で、すっきりすると思います。これからソチまでの3年間は、今まで以上に大事な3年間になります。そう意識出来ているからこそ取り組めるのかなと思います。」

期待通り、自己ベストも12点以上更新し、3シーズンをかけ「ショートとフリーで四回転3回」のトップクラスの構成を完成した矢先、競技人生の大詰めで襲った怪我。右膝の古傷に受けた痛みを負いながら、全日本選手権、ソチ五輪と演じ切りました。
「自分の人生の中でもきっとおもしろいシーズン」。それが最後の【髙橋大輔時代】でした。

【佐野先生が見た髙橋大輔時代(3)】

大輔のスケーティングはテクニック。年齢的に若くて「馬力(筋力)」が上のパトリックとはイメージが違うけど、伸びがある。2012年のグランプリファイナルでもパトリックに勝った。この時点で僕は、オリンピック銅メダル、世界選手権金メダル、ファイナル金メダルを取った大輔は「本当によく頑張った」と思ってたんだ。そこからソチ五輪シーズンに入って、NHK杯の「すげぇーーー演技」で五輪代表選考基準で優位に立った(ワールドランキング日本人2位・シーズンベスト世界3位)後に怪我をして……全日本もオリンピックもよく頑張った。怪我のない状態で花道を飾らせてやりたかった。

……逆に言えば、それが「大輔らしい」のかもしれない。

誰しも選手としての「辞め時」がある。髙橋大輔が選んだ辞め時は、(バンクーバー五輪シーズン後やグランプリファイナルで優勝した)「自分が一番上にいる時」じゃなかった。「もぅーーーーだめだ!」っていう限界まで頑張った。
ソチ五輪でも日本人が大輔を乗り越えて行った。
「もう俺がいなくても日本男子は大丈夫だな」と、それは物凄く「カッコイイ辞め方」だと僕は思うんだよね。
男が一番華々しい時に栄光を掴んでスパッと辞める、それも一つの辞め方だけど。
ここまで引っ張って来た自分自身を後輩達の土台にして「あとは頼むぜ!」って辞めていく、それは男としてカッコイイやり方でしょうね。……僕は一番良い時に辞めたから(笑)今とはアマチュア競技を取り巻く環境が違ったんだけど。
引退の発表も(地元)岡山で発表して、そういうところも「大輔らしい」のかもしれない。
これからもずっとそんな「髙橋大輔」を演じてほしいっていうかなー、そのまんま今まで通り出して生きていってほしいと思いますね。「もし悩むことがあったらいつでも連絡して来い!」

(髙橋大輔さんの一番好きなところ)「優しい」ところかな!(笑)人に対して優しいんだよ、アイツ。……俺もそうだけどね(笑)男は人に優しくなきゃね!

【鬼・四回転時代の名演技】

マンボ、タンゴ、コンテンポラリー、ブルース(陸のダンサーにも至難の「抜け」感を表現)、ロックンロール、クラシック、オペラ、ビートルズ……
と多様な音楽と多彩な踊りを一つ一つ見比べて味わいたいところですが、2012年全日本選手権FS『道化師』の演技にはまたもうひとつのフィギュアスケートの醍醐味がありました。

2012年全日本選手権FS『道化師』(シェイリーン・ボーンさん振付、フリー1位)*
ショートで四回転にミスがあり、1位羽生結弦選手に964点離されて臨んだ最終グループの1番滑走。演目は道化師の性や苦悩を描くオペラ。
何があってもショーを続ける道化師の壮絶な生き様を歌う『Vesti la giubba』。怪我をしてから決まっていなかった冒頭2回の四回転を降りると、会場は一気にオペラ『道化師』の「夢とも現実ともつかない世界」に入り込みます。
ポージングを連続させる激情的な振付を、無重力のようなスケーティングで止まることなく流れるように魅せていく、26歳となった道化師。陸では不可能な踊りと成功を重ねるエレメンツに会場は昂ります。愛を失った道化師の絶望がフィナーレの『No Pagliaccio non son!』のコレオシークエンスで放たれ(情熱のあまり振り付けたタイミングより早まり、1歩目が楽器を率いる形になった髙橋大輔さん)、道化師と会場はカタルシスを迎えます。
スポーツが生み出す勝負、心技体を鍛錬し尽くしたトップアスリートによるフィギュアスケートならではの演舞。最後のスピンで舞い落ちた(1ポイント減点となる)衣装の手先の彩りのひとひらは、「このショーを忘れないように」という運命の計らいにも見えました。

参考までに

【髙橋大輔時代】を振り返るためのウォームアップ 2014/10/17 1912

http://www.jsports.co.jp/press/article/N2014101718440806.html

◆内容◆

1014日に引退を発表された髙橋大輔さんが、振付師・宮本賢二先生のトーク番組「フィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋」11月のゲストです。 今回は、男子シングルの歴史に刻まれた【髙橋大輔時代】を振り返る名場面集をダイジェストでお届けします。

◆男子シングル3つの時代で活躍したDaisuke TAKAHASHI

1)トリノ五輪前:審判のレイティングで順位が決まる「60ポイント制時代」=第一次四回転時代
2
)トリノ五輪後~バンクーバー五輪:新採点システム(ISU Judging System)対応型の【得点を積算していくプログラム】が奏効した「冬・四回転時代」
3
2011年世界選手権~現在に続く:少なくとも、【四回転ジャンプをショートとフリーで計2回以上】決め他の三回転ジャンプにも失敗が許されない、「鬼・四回転時代」=第二次四回転時代
(「鬼・四回転時代」については、日頃フィギュアスケートを見ないスポーツファンがソチ五輪フィギュアスケートで心底盛り上がるための一夜漬け事項参照:http://www.jsports.co.jp/press/article/N2014021218495606.html

髙橋大輔さんは、徐々に深まっていく「冬・四回転時代」の中、2008年四大陸選手権のフリーで2回四回転を決め総合得点「26441」の当時のワールドレコードを打ち立てるという荒ぶる所業を成し遂げます。その次のシーズンで「右膝前十字靭帯断裂」というスポーツファンなら誰しも絶望してしまう大怪我に見舞われるのですが、なんと翌バンクーバー五輪の20092010シーズンに復活と言うよりも君臨。五輪ショートでは、グランプリファイナルに続き怪我をする前の自己ベストを更新。四回転ジャンパーへの風当りが強い中、フリーで四回転に挑戦する意地も魅せ日本人男子シングル初となる五輪銅メダル、続く世界選手権ではフリーで四回転フリップのサプライズも演出し初の世界王者となります。
「冬・四回転時代」を、強い心と踊り心で駆け抜けていった、その姿が昨季のフリースケーティング(FS)『ビートルズ・メドレー』の最後の疾走するコレオシークエンスと重なります。

「鬼・四回転時代」の佳境に入っていく20112012シーズンには、怪我をする前の自身の全盛期の得点を12点以上も更新。昨季のソチ五輪シーズンにも、NHK杯で総合「26831」のシーズンベスト世界3位(五輪前)の得点をあげ、ワールドランキングも日本人2位となり、3回目の五輪出場を決めました。

Daisuke TAKAHASHIの演目革命

怪我からの復活以降、髙橋大輔さんは肉体改造やスケーティングの進化により、無重力のような滑りを手にしました。それまでの情念を刻むラテンボールルーム系の踊りに加え、見る者をやさしく包むようなソフトなタッチも魅せ、幅広く名作揃いの大輔さんですが、日頃フィギュアスケートを見ない皆さんに是非お伝えしたいプログラムがあります。ヒップホップの『白鳥の湖』(20072008ショートプログラム)、ビョークの曲『Bachelorette』(20072008エキシビション)、『道化師』(20122013フリースケーティング)です。

ずっと滑り続けているフィギュアスケートでは、踊りを留めて間をもたせ「リズムの裏」を見せることが困難なのですが、『白鳥の湖』ではそのヒップホップの真髄を氷上で見せ、サイバースワン革命を起しました。

全世界的に歌謡曲全盛時代で、なかなか街角でビョークも聴けないところ、フィギュアスケート会場でビョークを流したのがコンテンポラリー(心象を抽象的に表現)大作『Bachelorette』です。宮本賢二先生の振付で「好きな曲に乗って動いた」という大輔さんとの共作的なプログラム。音楽と踊りが幽玄にあいまった、コンテンポラリー革命を起しました。

『道化師』では、西洋音楽(オペラ)で浄瑠璃の世界にあるような日本人ならではの性や情念を見せた、和洋折衷革命を起します。2012年全日本では、鍛錬し尽くした心技体で紡ぎ出されたその演技に、波打つようなスタンディングオベーションが起こりました。その演技後の全然噛まない一気呵成の8分間に及ぶインタビューも、いつもはゆったりと話をされる大輔さんからすると革命的でした。テキスト:島津愛子 Aiko Shimazu



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