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11/12 濱田美栄が指導の道へ進んだ原動力 フィギュアスケート育成の現場から(2)

(2014-11-12)

報道機関

Sportnavi

見出し

濱田美栄が指導の道へ進んだ原動力 フィギュアスケート育成の現場から(2)

配信日

20141112日 1040

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201411060004-spnavi

◆内容◆松原 孝臣

・大きな変化を遂げたフィギュアスケート界

濱田美栄は、32年にわたってリンクに立ち、数多くの選手の指導にあたってきた。
 その間、日本のフィギュアスケート界は大きな変化を遂げた。
 今でこそ、グランプリシリーズ、世界選手権、五輪、さらにジュニアなどでも、国際大会では日本の選手が当たり前のように上位に名を連ねる。競技成績の変化ばかりではない。選手たちの活躍があって、数ある競技の中でも、高い認知度を誇る1つとなった。
 それらは濱田が指導者の道を歩き始めたころにはなかった光景だ。その光景の違いの間に、濱田の指導者としての歩みがある。
「これだけ変わるきっかけになったのは、やっぱり、トリノ五輪で荒川(静香)さんが金メダルを獲ったことじゃないんですか。あのときから、フィギュアスケートって変わってきたと思います」
 濱田は振り返る。
 今日とは異なる時代も長かったから、濱田自身、苦しい時期を過ごしたこともある。
 その1つが、自身が籍を置くクラブが活動拠点としていた京都の醍醐スケートリンクが閉鎖されたときだ。
 それは2005年9月のことだった。「フィギュアスケートが変わるきっかけになった」と濱田が言うトリノ五輪の、5カ月前というタイミングだった。

次々になくなっていったスケートリンク

当時、濱田が教えていた選手たちの中には、その前年の四大陸選手権で優勝した太田由希奈や、成長著しい澤田亜紀と北村明子の両高校生らがいた。そのとき、拠点が失われたのである。しかも醍醐スケートは京都府で唯一、通年利用できるリンクだった。
 閉鎖に追い込まれた理由の主となったのは、2002年、京都市が夏季はプール、冬はスケートに利用できる京都アクアアリーナを開設したことによる利用者の減少にあったという。
 醍醐スケートに限らず、京都府内では1986年と1999年にそれぞれ1つずつ、リンクが閉鎖されていた。府内だけではない。滋賀県の竜王スケートリンクは2000年に、2004年には大阪府高槻市の高槻O2スケートリンクが閉鎖となっていた。スケートリンクが次々になくなっていったことは、当時のスケート事情を物語る事実の1つかもしれない。
 醍醐スケートが閉鎖されたあと、濱田らクラブのメンバーを待っていたのは、練習場所を求めて転々とする日々だった。京都アクアアリーナはもちろんのこと、滋賀県、大阪府、さらに兵庫県にも足を伸ばした。
 選手たちは、濱田が運転する車で遠い道のりを通った。
「車も、みんなが乗ることができるものに買い替えたりしましたね。今、振り返ってみれば、よくそこまで通っていたな、と思うくらい遠くまで行っていました。でもそのころは、逆境とは感じていなかったと思います。あまりしんどいとも思わなかったですね。なにしろ、続けたいという思いだけでしたから」

・本当に好きになってくれたファンは残る

必死だったからこそ、そのころはしんどいとは思っていなかったかもしれない。ただ、そうした厳しい時期を乗り越え、関西大学のコーチの肩書きも得て、関西大学のアリーナに立っている。
「これだけよい環境で練習できるなんて、とてもいいですよね。すごくうれしいです」
 笑顔を見せた濱田は、続ける。
「(浅田)真央ちゃん、大ちゃん(高橋大輔)たちのおかげで、フィギュアスケートはこうやって発展してきたんですね。発展させてきた選手たちの姿がなくなったら、もしかしたらブームは去るかもしれません。今から本当にフィギュアスケートが問われるんじゃないでしょうか」
 日本におけるフィギュアスケート界の過去と現在を知る濱田だからこその言葉だった。
 では、「本当に問われる」と言う今後を、濱田自身はどう考えているのか。
「『いつも初級』。それを大切にしていきたいと思っています」
 その意味するところをこう明かした。
「フィギュアスケートの現在はすごくうれしいことですけれど、だから私は『フィギュアスケートって何ですか』と言われていたことを忘れないでおこう、『くるくる回るのがフィギュアスケートです』と説明しなければいけなかったときの気持ちを忘れないでいようと思っているんですね。
 私たちの立場というのは偉くなるものでもないし、偉くなろうとも思っていないんです。教えて育てて、育て上げたらまた初級から教えて、と繰り返してきて今があります。ブームは去ったとしても、本当に良いものは残っていくし、本当に好きになってくれたファンは残るじゃないですか。そのためにも私は、今までの姿勢と変わらず一生懸命教えていきたい。だから初級から、と思っているんです。どんな選手であっても、必ず1回転から始まるように」

・周囲に感謝できる、人のせいにしない選手は伸びる

自分のスタンスが変わることはない。そう濱田は言う。選手を育てたい、その一心で選手たちを見守ってきた。
 たくさんの選手と接する中で、実感したこともある。
「競技環境に恵まれていたら選手は育つかと言ったら、決してそんなことはないと思います。むしろ大切なのは、周囲に感謝できる、人のせいにしない選手。伸びる子はね、自分に足りないものを自分で見つけるし反省もするから、悪口も少ないんですね。これまで見てきた子でも、伸びる子はそういう選手でした」
 濱田が指導している宮原知子(関大中・高スケート部)もその1人だ。
「本当に素直なんですね。感謝も知っていて、だから、ここまで少しずつ、着実に進んでくることができたんだと思っています」
 宮原は、自身にとって今季グランプリシリーズ初戦となるスケートカナダで3位。グランプリ初の表彰台で、笑顔を見せた。成績もさることながら、その滑りもまた、濱田の「少しずつ、着実に進んで」という言葉を裏付けているようだった。
「彼女はスケートが大好きな選手で。そう、やっぱり好きだ、というのがいちばん大きいですね」
 宮原について続けたあと、思い当たったかのように、こう語った。
「私も、とにかく教えるのが好きでやっているだけです。貸し靴の子、初級の子を教えるのも、大きな試合に行くときのどきどきも、どちらも同じように好きなんです。教えている者が好きじゃなかったら、選手もスケートを好きになりませんよね。そして、真面目に、誠実に教えるということをしていれば、必ず道は拓けると思っています」
 リンクに立ち続け、これからも立ち続けようという濱田の信念だった。
(第3回に続く/文中敬称略)
※「フィギュアスケート育成の現場から」と題し、全国の指導者たちを訪ねる企画をシリーズでお届けします。
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日本のフィギュアスケート界が変わったきっかけは、荒川静香の金メダル獲得だったと振り返る濱田
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2007年のエリック・ボンパール杯で当時の教え子、澤田亜紀(右)と
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厳しい時期を乗り越え、濱田は関西大学のアリーナに立っている
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スケートカナダで3位に入った宮原知子(右)。「スケートが大好きな選手」と濱田は語る

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