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11/26 コーチへ転身した澤田亜紀の現在 フィギュアスケート育成の現場から(3)

(2014-11-26)

報道機関

Sportnavi

見出し

コーチへ転身した澤田亜紀の現在 フィギュアスケート育成の現場から(3)

配信日

20141126日 1145

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201411250004-spnavi

◆内容◆松原 孝臣

・変わらない明るさ

いつ見ても、元気だ。いつも、そう感じてしまう。
 その姿と表情は、現役の頃も、コーチとして母校のリンクに立つ今も、変わらず明るさを放っている。
「今は(関西大学で)長光(歌子)先生のアシスタントをさせてもらっています。先生や本田武史さんをはじめ5人でチームの生徒を教えているかたちになります」
 澤田亜紀は言う。
 2005−06シーズンにフィギュアスケートのジュニアグランプリファイナル2位、全日本ジュニア選手権優勝。シニアに転向した翌シーズンにはグランプリシリーズで5位と8位になり、四大陸選手権で4位。国内外で活躍してきた澤田は、高さと力強さのあるジャンプ、でもどこか優しさのある演技が印象的だった。
 関西大学4年生だった2011年1月、22歳で現役を引退。卒業後、一度は就職したが、2年勤めたあとコーチに身を転じた。
「卒業してからコナミスポーツに就職したんです。そのあと、歌子先生から『スケートの先生をやってみない?』と誘われて転職しました。チームでは、ジャンプが得意だったので、ジャンプを見るのが中心になっています。あとはちっちゃい子をメインに教えています」
 コーチを始めてからのキャリアは浅い。それでも、選手時代の体験を踏まえ、必死に取り組んできた。

意識が変わるきっかけとなった野辺山合宿

 スケートを始めたのは5歳のとき。
「私はあまり記憶していないのですが。母が新聞でスケート教室の募集の広告を見つけたんですね。伊藤みどりさんとかをテレビで観ていていいなあとずっと思っていたらしくて、その広告をきっかけにスケート教室に入れられたという感じです(笑)」
 京都の醍醐スケートリンクで滑り始め、小学1年生のころから、濱田美栄に教わるようになった。
「スケート教室に行ったら会う友達がいたので、その友達に会いにいくっていう感覚でスケートをやっていた記憶があります。低学年の間は、ほかにもバレエやピアノだったりいろいろ習っていて、習い事の1つでしたね」
 そんな意識は、少しずつ変化していった。
 きっかけの1つは、同世代の選手たちを目の当たりにしたことにあったと言う。
「野辺山合宿に参加したときです」
 野辺山合宿とは、選手育成を目的に、全国から有望な子どもたちを集めて行なわれるもので、1992年にスタートしている。
「2回目に行ったとき、浅田真央ちゃん、舞ちゃんも一緒だったかな。野辺山合宿に参加すると、全日本ノービス選手権のシード選手が選ばれるんですね。その2人が選ばれて、同世代にすごい選手がいるんだなと思いましたし、自分も全日本に、と思うようになりました」
 同時に、夢も抱くようになっていた。
「それこそ関西から出たことがない、くらいの感じだったので、飛行機に乗りたい、海外に行きたいという思いをモチベーションに練習していたのを覚えています(笑)」

・「自分たちだけじゃない」という思い

90年代からスケートを始め、やがて日本代表にもなり活躍してきた澤田は、フィギュアスケート界の変化を身をもって感じてきた1人でもある。
 05年9月、醍醐スケートが閉鎖された。澤田たちは拠点を失い、練習できる場所を求めて遠方へと転々とする日々が続いた。
「練習場所の確保のために、ほとんど濱田先生が動いてくださったのですが、それまで学校帰りに練習ができていたのに、毎日練習できる保証がない。どうしようと不安がありました」
 不安の中、支えになったのは「自分たちだけじゃない」という思いだった。
「京都だけじゃなく、仙台だとか、リンクがなくなって大変な思いをしているという話を聞いていました。当時、(町田)樹君は広島で滑っていたと思いますが、シーズンリンクなので夏は岡山に通っているということも聞きました。みんな苦労しているんだ、それでも成績を出しているんだから、甘えている場合じゃない、自分たちだけじゃないんだからと思いながら練習していました」
 利用者の減少で「スケート離れ」が指摘されることもあったように、リンクの運営の厳しさから閉鎖される場所が珍しくなかったのが当時だった。

期待される選手の1人だったが……

不安定な環境の一方で、そのシーズン、フィギュアスケートをめぐる変化を感じた。
 05年の年末、代々木第一体育館での全日本選手権に出場した澤田は、7位の成績を残したが、この大会で何よりも感じたことがあった。
「お客さんがすごく入っていたのが印象に残りました。小学3年生のとき、全日本選手権を観に行ったのを覚えているんですね。場所は神戸だったと思いますが、『先輩が出ているから応援に来ました』という人ばかりで、観客席はがらがらでした。そういう頃からすると、すごい時代になったなと感じました」
 メディアの伝え方も変わっているのを感じ取った。
「ちっちゃいころは、グランプリシリーズも夜中にBSで観るものだと思っていましたし、全日本選手権も深夜枠でやっていた程度だったんですね。だんだんゴールデンタイムに映してもらえるようになって嬉しいなって気持ちがあったのを覚えています」
 その翌シーズン、シニアに転向すると、四大陸選手権4位など好成績を挙げた。これからを期待される選手の1人だった。
 だが、その翌シーズンの07−08年以降、はた目には意外に思えるほど、低迷が続いた。グランプリシリーズへの出場も、07年のフランス大会が最後になった。
 まっすぐに進むように思えた足取りの乱れはなぜ起きたのか。
 その理由、そして経験は、コーチとして大切にしている思いにもつながっている、と澤田は語る。
(第4回に続く/文中敬称略)

※「フィギュアスケート育成の現場から」と題し、全国の指導者たちを訪ねる企画をシリーズでお届けします。201411250004-spnavi_2014112500005_view.jpg 

澤田亜紀は現在、関西大学で長光コーチのアシスタントとして生徒の指導を行っている

201411250004-spnavi_2014112500006_view.jpg

澤田はフィギュア界の変化を身をもって感じてきた1人でもある

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選手時代の経験は、コーチとして大切にしている思いにもつながっている


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